道警ヘリによる救助開始
午後4時30分、風がわずかに弱まった瞬間を狙って、北海道警察のヘリコプター「ほくとう」が救助作業を開始。標高2000メートルを超える高所での強風下の救助は、パイロットにとっても命がけの作業でした。
「こちら道警ヘリ、現場を視認。複数名が倒れている模様」
ヘリからの無線が、旭川市の災害対策本部に緊迫した状況を伝えます。
上空から見ても、事態の深刻さは明らかでした。オレンジ色のツェルトに包まれた人影が点々と見え、動いているのはガイドを含む数名だけです。
最初に救助されたのは、最も重篤な状態だった戸田さんでした。
意識不明、体温は測定不能、既に心肺機能も危険な状態です。ホイストによる吊り上げ作業は通常なら5分程度ですが、強風のため15分かかりました。
戸田さんの救助が完了した直後、再び風が強まり、ヘリコプターは一時退避。
次の救助機会を待つ間に、さらなる悲劇が起こります。
夜を徹した救助活動
午後6時、真鍋さんが意識を失いました。
朝から低体温症の症状を示していた69歳の女性は、ついに体温調節機能が完全に停止してしまいましのです。松本ガイドが必死に心肺蘇生を施しましたが、反応はありませんでした。
「真鍋さん、しっかりして!」
多田ガイドの叫び声が風に消えていきます。これで3人目の犠牲者でした。
真鍋さんは孫のために高山植物の写真を撮ることを楽しみにしており、リュックの中には既に何枚もの美しい花の写真が入っていました。
午後7時を過ぎると、山は暗闇に包まれました。
救助活動は夜間照明を使って続行されます。地上からも上川町消防、旭川市消防などの救助隊が徒歩で現場に向かっていました。
夜間の救助は昼間以上に困難です。ヘリコプターの夜間飛行は制限があり、主に地上からの救助隊による活動となります。さらにトムラウシ山の登山道は複雑で、悪天候の中では救助隊でも道に迷う危険がありました。
午後9時、自力下山を試みていたグループからも悲報が届きます。
前田さんが沢で動けなくなり、川角ガイドが付き添っていましたが、容体が急変したのです。54歳の前田さんは、会社員として働きながら週末登山を楽しんでいた、ごく普通の登山愛好家でした。
生存者の壮絶な夜
一方、まだ意識のある生存者たちは、極限の恐怖と寒さの中で夜を過ごしていました。
「もうだめかもしれない…」
62歳の男性参加者、田原さんがつぶやきます。
隣にいた58歳の木村さんが震え声で答えました。
「諦めちゃだめだ。救助隊が必ず来る」
ツェルトの中で身を寄せ合い、お互いの体温で暖め合いながら、彼らは救助を待ち続けました。
体温の低下は容赦なく進行し、意識がもうろうとする時間が長くなっていきます。
多田ガイドは一睡もせず、参加者の容体を確認し続けています。
心拍数の測定、呼吸の確認、体温の維持。医療知識には限界がありましたが、できる限りのことをしようと必死でした。
「すみません、すみません…」
責任感の強い多田ガイドは、参加者に謝り続けました。出発の判断、ルート選択、装備チェック。すべてが自分の責任だと感じていました。
午前2時、さらなる悲劇が起こりました。
66歳の男性参加者、味田さんが静かに息を引き取ったのです。苦しみの表情もなく、まるで眠るように。
4人目の犠牲者でした。味田さんは元教師で、定年後に始めた登山で日本百名山の完登を目指していました。
夜明けまであと4時間。果たして残された人たちは、この長い夜を乗り切ることができるのでしょうか。
7月17日の夜明け
午前5時、ようやく空が白み始めました。
風は幾分弱まりましたが、気温は依然として10度を下回っています。
救助隊の懐中電灯の光が稜線に見えたのは午前5時30分でした。
「こちら旭川消防です!」の声が聞こえた時、生存者たちは安堵の涙を流します。
63歳の女性参加者の竹内さんは、この救助に間に合わず、明け方に静かに息を引き取りました。
竹内さんは看護師の経験があり、必死に他の参加者の看病をしていた結果、自分の体調管理が後手に回ってしまいました。
午前6時、本格的な救助作業が再開され、道警ヘリ、自衛隊ヘリが次々と現場に到着。
生存者の搬送が始まります。
最終的に21名中13名が生存しましたが、そのうち3名も重篤な状態で病院に搬送されました。そして搬送先の病院で、さらに3名の方が亡くなることになります。
トムラウシ山遭難事故、8名の尊い命が失われた戦後最悪クラスの山岳遭難事故がようやく終息しました。しかし、本当の意味での「終わり」は、まだ先の話です。

