トムラウシ山遭難事故|第2部:悪天候下での決行

トムラウシ山遭難事故

天沼から化雲岳への登り

出発してすぐに、一行は現実の厳しさを思い知らされることになります。避難小屋を一歩出ると、容赦ない風雨が参加者たちを襲いました。風速は20メートルを超え、横殴りの雨が顔に叩きつけます。

「うわっ、すごい風!」

先頭を歩いていた男性参加者が、突風でよろめきながら叫びます。ガスで視界は30メートル程度しかなく、少し離れるとお互いの姿が見えなくなってしまいます。

多田ガイドは慎重に歩を進めながら、コンパスで方角を確認します。GPSも携帯していましたが、この悪天候では地図とコンパスが頼りでした。天沼を回り込み、化雲岳への登りにかかります。

「皆さん、間隔を詰めて歩いてください。はぐれないように注意して」

川角ガイドの声が風に消されそうになります。参加者たちは必死に前の人について歩きますが、足元は滑りやすく、岩場では特に注意が必要でした。

歩き始めて30分ほどで、最初の問題が発生しました。69歳の女性参加者、真鍋さんが「寒い、とても寒い」と訴え始めたのです。彼女は雨具の下にフリースを着ていましたが、その下は綿のTシャツでした。

「綿は濡れると保温性を失います。すぐに化繊の下着に着替えた方がいいですよ」

松本ガイドがアドバイスしますが、この風雨の中での着替えは困難でした。とりあえず雨具をしっかり着込み、歩き続けることで体温を維持しようとします。

問題は真鍋さんだけではありませんでした。参加者の中には、雨具の性能が不十分な人、靴が防水性に欠ける人もいました。
そして、出発から1時間も経たないうちに、複数の参加者が「足が冷たい」「手がかじかんで動かない」と訴え始めます。

化雲岳(2113m)通過

午前10時頃、一行は化雲岳の山頂に到達しました。しかし、そこは地獄のような環境でした。風速は25メートルを超え、気温は5度まで下がっています。体感温度はマイナス10度以下でした。

「こんな天気は初めてだ」

ベテラン登山者の一人がつぶやきます。7月の北海道でこれほどの悪天候に遭遇するとは、誰も予想していませんでした。
山頂で休憩を取ろうとしましたが、とても立ち止まれる環境ではありません。風で立っているのがやっとで、会話もままならない状況です。

「急いで下山しましょう。トムラウシ山を越えれば、風も弱くなります」

多田ガイドの判断で、休憩もそこそこに出発します。しかし、参加者の動きは明らかに鈍くなっていました。
61歳の男性参加者、植原さんが足を引きずるように歩いています。「大丈夫ですか?」という問いかけに、「なんとか…」と答えますが、顔色は土色に変わっていました。

68歳の戸田さんも、歩くたびに息が上がります。「息が…息が苦しい」。高度が2000メートルを超え、酸素も薄い中での悪天候は、中高年の体には想像以上の負担でした。

化雲岳から北沼方面への下りは、さらに過酷でした。ガレ場の急斜面は滑りやすく、強風で体がふらつきます。松本ガイドが後ろから参加者をサポートしますが、全員をケアするのは限界がありました。

トムラウシ山への最後の登り

午前11時、一行はトムラウシ山への最後の登りにかかりました。この時点で参加者の半数以上が限界に近づいています。

「もう歩けない…」

真鍋さんが立ち止まり、その場にしゃがみ込んでしまいました。体が震え、意識も朦朧としています。明らかに低体温症の症状でした。

「皆さん、緊急事態です。低体温症の疑いがあります」

川角ガイドが叫びますが、この悪天候の中で応急処置をするのは困難でした。とりあえず防風のためにツェルトで風を防ぎ、保温に努めます。

この症状は、真鍋さんだけではありませんでした。
植原さんも呂律が回らなくなり、「寒い、とても寒い」を繰り返すだけです。体温の低下により、判断力も失われていました。

多田ガイドは重大な決断を迫られます。
ここで停滞するか、それとも山頂を目指すか。山頂を越えて下山路に入れば風から逃れられる可能性がありますが、参加者の体力は限界です。

「山頂まであと少しです。頑張りましょう」

結局、多田ガイドは前進を選択しますが、この判断が事態をさらに悪化させることになります。

標高2100メートルを超える最後の登りは、まさに死闘でした。風速30メートルの突風が容赦なく襲いかかり、参加者たちは四つん這いになって登らなければなりません。

「助けて…もうだめ…」

68歳の戸田さんが泣き声で訴えます。しかし、誰も助ける余裕がありません。各自が生きることに必死で、他人を気遣う余裕は残されていませんでした。

午後12時30分、ついにトムラウシ山頂(2141メートル)に到達します。
しかし、それは悲劇の始まりに過ぎませんでした。山頂の気温は3度、風速は35メートルに達し、北海道の夏山とは思えない極地のような環境でした。

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