トムラウシ山遭難事故|第1部:出発と初期の楽観

トムラウシ山遭難事故

7月14日:旭岳出発

「おはようございます!今日から3日間、よろしくお願いします!」

旭岳温泉のロープウェイ乗り場に響く多田ガイドの元気な声に、参加者たちも笑顔で応えます。
午前7時、標高1100メートルの旭岳温泉から姿見駅(1600メートル)へとロープウェイで一気に上がります。

ゴンドラの窓から見える旭岳の雄姿に、参加者たちは歓声を上げました。
「やっぱり北海道の山は違うね」「本州では見られないスケールだ」。期待に胸を膨らませる声があちこちから聞こえてきます。

姿見駅に降り立つと、そこは別世界でした。
7月中旬にも関わらず、まだ雪渓が残り、高山植物が咲き乱れる美しい光景が広がっています。気温は15度ほどで涼しく、絶好の登山日和です。

「今日は旭岳山頂を経由して白雲岳避難小屋まで歩きます。距離は約8キロ、標準コースタイムで6時間の行程です」

多田ガイドの説明を聞きながら、参加者たちは最終的な装備チェックを行います。
ザックの重さは2泊3日分で約12キロ。中高年には決して軽い荷物ではありませんが、皆慣れた様子で背負っています。

午前8時30分、いよいよ登山開始。
最初は木道の緩やかな登りから始まります。高山植物の説明をしながら歩く川角ガイドの周りに、植物好きの女性参加者たちが集まります。「これがエゾコザクラですね」「チングルマがこんなに群生しているなんて」。北海道ならではの植物に皆感動しています。

7月15日:縦走2日目

白雲岳避難小屋での一夜明け、参加者たちの表情は満足感に満ちていました。
標高2230メートルの白雲岳山頂からの360度の大パノラマ、そして避難小屋からの美しい夕日と星空。「来てよかった」という声が口々に聞かれます。

松本サブガイドは朝の天気図を見ながら眉をひそめていました。前線の動きが予想より早く、明日の天候が心配です。

「今日は忠別岳を経由してヒサゴ沼避難小屋まで約7キロの行程です。稜線歩きが中心で、天気がもてば最高の縦走日和になるでしょう」

多田ガイドの言葉通り午前中はまだ晴れ間が多く、大雪山系の雄大な稜線を楽しむことができましたが、午後になると雲が厚くなり風も強まってきます。

「風が冷たくなってきましたね」

68歳の女性参加者、戸田さんがつぶやきます。確かに午前中は半袖でも歩けたのに、午後には長袖が必要になっていました。
忠別岳(2052メートル)の山頂では、ガスが巻き上がり始めており、視界は悪い状況です。

「北海道の山は天気の変化が激しいですから、注意が必要ですね」

松本ガイドが参加者に注意を促します。

午後4時、ヒサゴ沼避難小屋に到着。
小屋の周りは美しい高層湿原が広がり、池塘に映る空の色が幻想的ですが、空の色は確実に怪しくなってきています。
夕食後、多田ガイドは翌日の天気予報を確認しました。

「明日は雨の予報ですが、午後には回復する見込みです。トムラウシ山頂を経て下山すれば、温泉で汗を流せますよ」

参加者たちは期待に胸を膨らませながら眠りにつきました。屋外では夜半過ぎから避難小屋を揺らす強風の音が響き始めています。

運命の7月16日朝

「ゴーッ」という唸るような風の音で目を覚ました参加者たち。
時刻は午前4時、外はまだ暗闇でしたが、避難小屋の窓を叩く雨音が不安を誘います。

午前5時、多田ガイドが外の様子を確認に出ました。
気温は8度まで下がり、風速は15メートルを超えています。濃いガスで視界は50メートルほどです。明らかに悪条件でした。

避難小屋内では、参加者の間に不安の声が上がります。
「今日は留まった方がいいのでは」「この天気で歩くのは危険ではないか」。
ベテラン登山者たちの多くが、出発に疑問を感じていました。

「天気予報では午後から回復します。トムラウシ公園まで下りれば風も弱くなるでしょう。予定通り出発します」

多田ガイドはそう判断しました。

午前7時30分、朝食と出発準備を済ませた21名は、風雨の中をヒサゴ沼避難小屋から出発します。この時、誰もこれが8名の命を奪う死の行進の始まりだとは想像していませんでした。

タイトルとURLをコピーしました